世間並みの幸せなんて無理な話だった

いちばん暗い夜明け前にうたうブログ 走っても走っても私の夜が明けない(椎名林檎に非ず) ※別名義のツイッターアカウントはhttps://mobile.twitter.com/sigure_aki (主に短歌をつくっています)

とにかくもかくにも何かを書きたい

わたしは、やっぱりものをかくことが好きだ。

 

ビジネス文書とはちがう、やわらかい文書を書くのが好きだ。

 

何かの間違いでずっと堅い仕事ばかりしているけど、フリーライターになりたい。なにかすこしでも仕事を受けられないだろうか。

 

わたしはものを書くのが好き。あなたは、なにが好き?

合わせてはいけない周波数に波長が合う時間に

 夜明け前のあの時間だけは、私の回りの空気もとろけるようにまろやかで、あまやかで、なんの心配もなかった。
 わたしの構成部品(コンポーネント)はモザイク状にほぐれ、崩れて、細かい格子模様のはいった壁に投影される。巨大な質量と引力をもつ海の気配と、ゆらぐ夕焼けのにおい、あの雨の日の土のにおいすら漂うなかで、わたしは、自分自身の影と、彼の気配が交ざりあう幻を視る。

 

 これは陽炎だ。逃げ水だ。なにもかも、うたかたに、手を伸ばした先から消えてしまう。

 

 いつまでも完成しない夜に嫌気が差したわたしは、浴衣をブランケットがわりに眠りにつく。


 ありとあらゆることが彼の記憶を呼び起こす。わたしは過敏になっている。

 

 願わくば、彼の構成部品の原子ひとつぶんだけでも、いまのわたしと共にありますように。もはやこころなど亡くとも。わたしの鼓動がさみしさの波形をつくり、さざなみをたてる間は、せめて。

かろやかに遁走する

青春でなくとも、人生はかろやかに迷走する。

 

身軽に、なにひとつ持たずに生きてきたし、それはきっとこれからもそうだろう。

 

わたしは、ついぞどこにも根を張れなかったのだ、と繰り返し繰り返し韜晦しながら、ふらふらと流れて、ちぎれた雲にも似た、寄る辺ない暮らしを一体いつまで続けるのか。

 

こんな生き方を、いつまで?

 

どのようにせよ、どこにも、ひとつのところには留まれなかったのだ。安息の地はなく、もはや帰る場所もない。こんな生き方には、誰も付き合わせられなかった。

 

次はどこへ?人生は旅だというが、旅から旅へ、こんな生き方をいつまで、と。

 

嘯きながら、まだもうすこし、やれるだけやってみるよ。

ねえ、どうせ跳ぶなら綺麗に跳んでみせるから、どこかで待っていてね、先輩。

結婚はもはや制度疲労している

「男女が結婚し、こどもを産み、育てあげる」ことが、現代の日本では困難をきわめている。

 

今の若年層の年収は、平均して低い。

 

こどもを育てようとしても、その世代の両親が、その世代にしてくれたようなこと(たとえば、私立に通わせ、いろいろな習い事をさせ、大学までやるというようなこと)が満足にできないのではないか、と思うほどに。

 

過去、男性の稼ぎがよく、女性は専業主婦が当たり前だったような時代とは、もう、明らかに状況が変わってきている。今は、共働きはあたりまえ、それでもなお、先が見えず、収入もさほどではなく、こどもを育てるには日本の未来は暗く、そして、こどもを育てる母親への当たりはきつい。

 

もっと言えば、はたらく女性への要求が過剰だ。

 

はたらけ、結婚をしろ、こどもを産め、家事をしろ、年上の男性には従順でいろ、おとなしくあれ、と、どこまでも過剰だ。現在の少子化傾向は、あきらかに、過去の政治家の政策的な失敗によるものだ。そのリカバリーをなぜ、今を生きる若い世代の女性が、当時の政策的な失敗にはなんの責任もない女性たちが行わなくてはならないのか?

 

単に産む性別だから、という言い訳はナンセンスだ。さて、こどもを産むのは確かに女性だが、こどもを「産ませる」のは誰だろう? 男性だろう? わたしは、「もっと産んでくれないと」という言説に果てしない違和感をもっている。正確には、「もっと俺達の奴隷になってくれないと。はたらいて、稼いで、こどもを育てて、めんどうなことは女がやってくれよ、どうせたいした役にたたないんだから、それくらいは」と言いたいのではないか、と疑問をもつ程度には。

 

女性が女性として生きるだけで、困難を伴う。政治家の大半は男性で占められている。女性の声は、だいたい届かない。

 

就職差別も依然としてあるだろう。そして彼らは言うのだ。「女はいいな。アファーマティブ・アクションだか、女性活躍推進だかで優遇されて」と。

 

違う。今までずっと、下駄を履かされてきたのは男の方だ。男だから、家族を養わないといけないからといって、優先的に採用されてきた。女は、いずれ結婚してやめるから、と平気で切り捨てられ、後回しにされてきた。

 

だから私は日系企業を見捨てた。外資系企業へと身を寄せた。そのうちに、日本も見捨てるかもしれない。それほどに、この現状はひどい。きわめて内向きで、男同士の馴れ合いが蔓延し、優秀な女性を排除する、それがあたりまえの空気に嫌気が差した。

 

老人の、老人による、老人の政治はいつまで続くのだろう? 若い世代の女性は、これ以上、どこまで搾取されないといけないのだろう?わたしたちは、先の世代の失敗のツケを払わされながら、どこまで踏みつけにされないといけないんだろう?

 

頭も鈍り、判断力も落ち、現実も見ない、醜く愚かな政治家たちが牛耳るこの国に、どうやって希望を抱けというのだ?

 

こんな国で、希望をもってこどもを育てるなんて、無理だ。すくなくとも、現在の平均的な男女が金銭的にも苦しみながらこどもを育てるには、かなりタフな状況にあると言わざるを得ないのではないか。

 

だれもがこどもを育てられるようにすればいいのに。だれでも好きな人と、ゆるやかに家族になれれば良いのに。親友とペアになったり、好きな人達のペアに交ぜてもらったり、ふたりだけではなく、三人でも、四人でも、好きなようにあたらしい家族のカタチをデザインできるような制度があればいい。同性婚だって、集団婚だって構わない。だって明らかだろう? 男性と女性のペアではこどもを育てるには金銭的にきびしいのならば、それ以外のペア、男性と男性、女性と女性、それにこだわらず「仲のいい人たちで家族を好き勝手につくり、養子をもらい、育てあげる」ほうが理にかなっているのではないかと思う。

 

男性と女性の結婚は、つまり、「他人同士が家族になり、税制面等で優遇されながら、合理的にこどもを育てるには、男性と女性が結婚する以外にあまり手段がない」という現状は、もはや制度疲労している。

 

伝統的家族観に囚われる保守的なひとびとからすれば、卒倒するような意見かもしれない。だが、たかだか数十年前には、「こどもは地域で育てるもの」だった。大きな、疑似家族がこどもを育てていたのだ。それを現代日本に、制度的に復活させたところで、なんの支障があるというのか。(もちろん、性的虐待や人身売買等、負の側面には十分に配慮しなければならないが。)

 

変化がこわいんだろう。知ってるよ。女性が優秀で、男性の仕事を奪っていくのも怖いんだろう。女性を家庭に縛り付けて、あくまで軸足を家庭に置かせておいて、仕事はあくまで「家計の助けになる程度」にさせておかないと、こわいんだろう。そうこわがらなくても、いいよ。なぜならば、男性でも無能なものは無能であり、優秀な女性の有無にかかわらず、相変わらず無能だからだ。それは、無能な男性の問題に過ぎない。たしかに、無能なものは集団から排除されるかもしれない。ただその集団で排除されるというだけで、他の場所に行けばいくらでもやりようはあるし、それを過剰に恐れなければいいだけなのだと思うんだけど、どうだろう。

 

もう少し柔軟な社会になればいい。「こうあるべき」「ああすべき」「こうでなくてはならない」と、ただ漫然とつづいてきた習慣や、常識とされている悪弊にしばられてしまうと、きっと、この国は死ぬ。いや、もう、死につつあるのかもしれないが。

 

境界人の孤独

境界人……マージナルマンはもともと「大人にもなれない、だが子どもでもない」状態を指す語らしいが、ここでは違う意味で使用する。

 

ある組織に所属しながら、その境界に立つものは孤独になる。

 

群れには、いくつかの視点が必要だ。外を見る者、内の仕事を算段するもの、上を見るもの、そして、内部にいながらソトの視点を持ち、変革をもたらすもの。境界線を生きるもの。

 

完璧に「内」の者からすれば、境界線を生きるものは脅威でしかない。境界を超えることに、ヒトは本能的に恐怖し、また嫌悪感を抱く。

 

 

組織はあるときから、その目的を忘れ、組織の存続自体が目的となる。つまり、完全に「内」に漬かってしまった方が居心地はよくなる。

 

わたしは、つねに境界人だった。

 

何処の組織でも孤独であり、理解者は少数、帰属先はなく、ただ独立独歩の生を送ってきた。

 

基本型が浮草なのだろう。

 

だからもう少し旅をしようと思う。

いつかどこかで、良い死に場所を見付けられるかもしれないから。

一皮むけば

 

 一皮むけばこんなものなのか、と、わたしはまじまじとその人の顔を見る。ふだんは覆い隠されている、すこし違う顔がのぞくと、怖くなる。

 

 力はつよいし、覆いかぶさられると何もできなくなる。それが恋人であっても、あまりの力の差に怯えてしまう。怯えたくなどなくとも。

 

 身を委ねる、身を任せるという言い回しは、間違っていない。なるようにしかならない、されるがままになる、と、よくも悪くも「諦める」一瞬が必ずある。世界中でどれだけの女性が、そうやって「ああ、かなわない」と諦めてきたのか。女にうまれたことと、男にうまれたことの完全な非対称性を実感してきたのか。

 

 あまり考えるとこわくなる。けれど、ほんとうに知らずに、知らないまま暮らすのと、知っているけれど知らないふりをしながら暮らすのには、天と地ほどの差がある。だれもが違う顔をもっていると、ただそれだけのことで、わたしたちは違うのだ、ということに過ぎなくとも。

 

 ああ、この顔だ、わたしはこの顔を知っている、線をこえた、裏側からひきずりだされたような顔を、わたしは、と。